横浜恵みキリスト教会

〒223-0052 神奈川県横浜市港北区綱島東3-2-7

イエス・キリストの福音
聖書が語る救いのメッセージ

  1.  それでイエスは次のように話された。「ある人が二人の息子を持っていた。
  2. すると、彼らのうちの若い方が父に、『父よ。私に、財産の中の(私への)相続分を今、与えて下さい。』と言った。それで、父は身代を彼らに分け与えた。
  3. すると、弟息子は、幾日も経たぬうちに、全てをまとめて、遠い国に向かって旅立った。そしてその地で放蕩三昧の生活で彼の財産を散逸してしまった。
  4. 彼が全てを使い果たしてしまった時、その国に大飢饉が起きた。それで彼は窮乏し始めた。
  5. それで、彼はその国の住民のある人のところに同居させてもらうために行った。それでその人は彼に豚飼いをさせるために農場に送り出した。
  6. しかし、彼は、豚が食べていたいなご豆で腹を満たしたいと切望するほどであった。しかし、だれ一人(食物を)彼に与えようとしなかった。
  7. しかし彼は我に返って、言った。「私の父のところのあの大勢の雇い人は皆、パンに有り余っているではないか。それなのに、私はここで飢え死にしかかっている。
  8. 立ち上がって父のところに行こう。そして父に、『父よ。私は天に対して、またあなたの前で罪を犯しました。
  9. もはや私はあなたの息子と呼ばれる資格はありません。私をあなたの雇い人の一人にしてください。』と言おう。」
  10. そして彼は立ち上がって彼の父のところに行った。彼がなおはるか遠くにいたのに、彼の父は彼を認め、深く憐れんで、そして走り寄って彼の首に抱きついた。そして彼に激しく口づけした。
  11. 彼の息子は言った。『父よ。私は天に対して、またあなたの前で罪を犯しました。もはや私はあなたの息子と呼ばれる資格はありません。』
  12. しかし、父は彼のしもべ《奴隷》たちに向かって言った。『急いであの最上の着物を持って来て、彼に着せよ。そして彼の手に指輪をはめ、足に靴を履かせよ。
  13. そして肥えた子牛を引いて来て、屠れ。そして食べて楽しもう。
  14. 私の、この息子が死んでいたのに、生き返ったのだ。失われていたのに、見つかったからだ。』そして彼らは祝宴を始めた。

 聖書の中に、イエス・キリストのお話になった「放蕩息子」という、大変有名な話があります。ある父親に二人の息子がいました。あるとき、弟息子のほうが、父親から財産の分け前をもらって家を離れ、遠い国に行ってしまいます。彼はそこで放蕩し、財産を使い果たしてしまいました。しかも、そのとき、国に飢きんが起こり、食べることにも困り始めたのですが、誰も助けてくれませんでした。ようやく見つけた仕事は、豚の世話をすることでした。お腹を空かせたこの息子は、豚の食べるえさでお腹を満たしたいと思うほど、哀れな状態になってしまいました。なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか?それは、自分を最も愛してくれている父親のもとを離れて、自分勝手な生き方をしてきたからでした。

人間を創造された神

 この息子と父親との関係は、私たち人間と神との関係を表しています。聖書には本当の神について、次のように記されています。
天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、このがこう仰せられる。「わたしがである。ほかにはいない。』(イザヤ書45章18節)
 神は地球や宇宙、全ての生き物、そして人間を創造されました。そして地球の上に人間を住まわせ、生きていく上で必要なものを全てお与えになり、生かしておられるのです。
「神は、過ぎ去った時代においては、全ての異邦人にそれぞれの道に従って歩くことを見逃しておられた。と言っても、神は、ご自身が善を行われる方であられることを常に証して来られたのである。そのために神は、あなたがたのために天から雨を降らせ、また収穫の時には実りを与え、あなたがたの心を食物と喜びをもって満たしてくださったのである。」』(使徒の働き14章16,17節)

神の愛の対象である人間

 では、神は何のために人間を創造されたのでしょうか?それは神の愛の対象としてなのです。人間は神の愛にこたえ、神を喜びたたえて生きるべきなのです。ところが、人間は本当の神を全く無視しています。そのために、生きる目的を見失ったままで人生を過ごしているのです。どんな物でも、まず製作者が目的を考え、それにふさわしく仕組みや形を整えて、完成させるのではないでしょうか。それならば、このように複雑ですばらしい仕組みを持った人間は、当然のこと、生きる目的があるはずです。その目的を人間にはっきり示すことが出来るのは、本当の神以外にはおられません。

むなしい人生の果て

 人間が神を無視して生き続けるならば、父のもとを離れた放蕩息子のように、ただ人生を自分の勝手な欲望のために浪費し続けて、死に至るしかありません。しかも、それで終わりではありません。
聖書には、人間は死後に永遠のさばきの場所である地獄に行かなければならないと書かれてあります。そこは永遠に続く火の池です。
そして、そのいのちの巻き物の中に名が書かれていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』(ヨハネの黙示録20章15節)
 人間は、神によって創造され、生きていく上での様々な恩恵を受けているにもかかわらず、神を全く無視し、軽んじています。また、神のさばきを恐れずに、多くの罪を犯しているのです。
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。』(エレミヤ書17章9節)
 本当の神は正しい方です。ですから、全ての罪人をさばかれます。罪人は誰も、そのさばきから逃れることは出来ないのです。

神の愛の現れであるイエス・キリスト

 しかし神は、このような罪人である私たちを哀れんでくださり、その愛のゆえに、救いを用意してくださいました。それは神のひとり子であられる、イエス・キリストによる救いです。キリストは人として誕生されました。そして、まったく罪のない方であることをそのご生涯を通して人々に示された上で、十字架に付けられて死なれました。私たちの身代わりとなって死ぬことによって、私たちを救うためでした。キリストは死後三日目に復活されました。誰でも、このイエス・キリストを、神の御子であり、自分の全ての罪をゆるしてくださる救い主であると信じるなら、死後のさばきを受けることなく、永遠の天国に行ける方となるのです。

父のもとに帰った息子の幸い

 放蕩息子は我に返り、自分の罪を認め、お父さんのところに帰って雇い人のひとりにしてもらおうと考えました。それは財産を食いつぶした自分など、息子としては受け入れてもらえないと考えたからです。しかしお父さんは、帰ってきた息子に自ら走り寄り、抱きしめ、何度も口づけしました。そして息子としての証しとなる着物や指輪などを与え、仔牛をほふり、祝宴を始めました。それ程、お父さんは息子が帰ってくることを心待ちにしていたのです。同様に、神はあなたが悔い改めて神のもとに立ち返るようにと望んでおられます。どうかイエス・キリストを救い主として信じ受け入れて、死後のさばきから救われ、あなたを愛の対象として創造された本当の神に立ち返る方となってください。
神は、全ての人が救われて、真理を十分に知るようになることを求めておられます。』(Iテモテ2章4節)

『実に、神は、世を愛された。そのために神はご自分のひとり子の御子を世に与えられたのである。それゆえ、全てその御子を信じている者は、滅びないばかりか、永遠のいのちを持っているのである。』

 この聖書のことばは、「聖書の中の聖書」とか「聖書のミニチュア」と呼ばれるとても有名なことばです。この一節の中に、神が人間に最も伝えたいと願っておられることが要約されているのです。ですから、この内容を解りやすく解説します。

「実に、神は」

 この「神」とは、人間がつくりあげた神々のことではありません。あるいは、歴史上の人物が死んで祭り上げられた神でもありません。聖書の神は、唯一絶対の存在であり、何もないところから全宇宙を造られた創造主です。あなたが認めても認めなくても、そのような神が、本当に存在されるのです。

「世を愛された。そのために神はご自分のひとり子の御子を世に与えられたのである。」

「ひとり子」とは、イエス・キリストです。「与えられた」とは、神が、イエス・キリストを、この世界に送ってくださって神に背いている人間を救うために、全人類の身代わりになさったという意味です。
 イエス・キリストが、なぜ死なれたのかというと、私たち人間が神を無視し、神の前に多くの罪を犯しているために、死んだ後にその罪の罰を地獄で受けなければならないからです。神は正しい方なので、罪ある人間をさばかなければならないのですが、神は私たちを愛してくださって、キリストを身代わりにさばいてくださったのです。神はそれほどまでに、あなたを愛しておられるのです。

「それゆえ、全てその御子を信じている者は、滅びないばかりか、」

 イエス・キリストがあなたの代わりに罪の罰を受けてくださって、神であり、救い主である証拠に復活してくださったので、御子イエス・キリストを信じる者は、ひとりとして滅びません。すなわち、ひとりとして地獄に行くことはありません。

「永遠のいのちを持っているのである。」

「永遠のいのちを持っている」とは、神とともに永遠に生きることのできるいのちが与えられていることであり、死んだ後には天国に行けるということです。神はだれでも、自分の罪を認めて、イエス・キリストを信じる者に、この永遠のいのちを無償で与えてくださるのです。
 どうかあなたも、永遠のいのちを持つ方となってください。心よりお願いします。

  1. それからイエスは人々に向かって、「あらゆる貪欲に対して注意し、警戒せよ。なぜならば、人に財産がどれほど有り余っている時でも、その人のいのちの長さはその人の財産によって決められていないからだ。」と言われた。
  2. それから、イエスは人々に向かって、喩えで話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
  3. それで、彼は心の中で、『どうしようか。私の収穫物を蓄える場所がない。』と言った。
  4. そして、『このようにしよう。私の幾つかある倉を取り壊そう。そして、一層大きな倉を幾つか建てよう。そしてそこに私の穀物と財宝を全て集めよう。
  5. そして自分のたましいに言おう。「たましいよ。お前は、これから後の長年のための、莫大な蓄財を持っているのだ。安心せよ。食べて飲んで、楽しみ続けよ。」』と言った。
  6. しかし、神は彼に、『愚か者よ。今夜、お前のたましいはお前から取り去られるのだ。そうしたら、お前が用意した物はだれのものになるのか。』と言われた。
  7. 自分のために宝を蓄えているが、神に対して貧しい者は、このようである。」

 有り余るほどの作物に、新しく建てた倉庫、そして将来の心配を全くしなくてもよいほどの十分な財産。この金持ちはこれらを得て、自分の成功に満足していました。しかし、この誇らしげな成功者に「愚か者!」と語る声がありました。それは神でした。神は彼の成功をほめるどころか、彼に厳しいお叱りのことばを語り、しかも死を告げられたのです。

なぜ、彼は愚か者と言われたのでしょうか。

 それは何よりもこの金持ちが、彼のいのちを握っておられる神のことを考えず、神の前に立つべき時がやがて来ること、すなわち、死がやって来ることを全く考えていなかったからです。彼は神から与えられた人生を、ただ自分を喜ばせることを目的として過ごしていました。では、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。

 まず第一に、私たちに命を与え、今日も生かしてくださっている神を認めることです。私たちは決して自分の力で生きているのではありません。私たちが生きていくために必要な太陽の光と熱、水、空気などは、すべて神が与えてくださったものです。

 ところが、多くの人々は、創造主である神以外のものを神の代わりにして、これを拝んでいます。神を無視して、人間の欲望が作り出した偶像を拝むことは、神に対する直接の罪です。私たちは何よりも、これらの罪を悔い改めて、真の神を信じなければなりません。
 次に私たちのなすべきことは、神が私たちを救うために送ってくださった、イエス・キリストを信じることです。聖書はこう語っています。

「なぜならば、その福音は私自身にも宣べ伝えられたものであり、私はそれを最も重要なこととして、あなたがたに伝えたからです。すなわち、それは、キリストが聖書に従って私たちの罪のために死なれたこと、そして、葬られたこと、そして、聖書に従って三日目によみがえらされ生きておられることです。」
(コリント人への手紙第一 15章3節~4節)

 私たちは皆、神の前に罪人です。神は正しい御方ですので、罪を裁かれます。そのさばきとは、死んだ後に地獄で永遠に苦しみを受けることです。すべての祝福の源である神から退けられるその苦しみと悲惨は、だれも想像することができません。

救い主イエス・キリスト

 私たちを裁くことは、神のお喜びになるところではありません。神は私たちの罪を赦し、私たちを神の子供とし、天国に入ることのできる者とするために、救い主イエス・キリストを送ってくださったのです。キリストが十字架にかかって死んでくださったのは、私たちの身代わりでした。私たちが受けなければならなかった罪の罰を、キリストが私たちに代わって受けてくださったのです。
 そしてキリストは、神の御子であり、信じる者に永遠のいのちを与えることのできる方であることを、はっきりと示すために、死後三日目に復活されました。だれでもキリストを信じる者は、永遠のいのちが無償でいただけるのです。

「御子を信じている者は永遠のいのちを持っている。しかし、御子に聞き従わない者は決していのちにあずかることがないばかりか、神の怒りがその者の上に留まっている。」
(ヨハネの福音書3章36節)

 どうかあなたも、イエス・キリストを信じて、罪の赦しを得て、天国に行くことのできる方、すなわち、神の前に富む者となってくださいますように、心よりお勧めいたします。