横浜恵みキリスト教会

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C.H.M小論集(クリスチャンのための学び)
Miscellaneous writings of C.H.Mackintosh

「人の窮地は神の好機」とは、良く知られたことわざです。私たちも、このことわざを良く使い、十分に信じています。しかし、自分自身が窮地に追い込まれた時、私たちは、それを神の好機と捕らえる備えが、まったくできていないことがしばしばあります。ある真理を語ったり、聞いたりすることと、その真理の持つ力を表わすこととは別問題です。おだやかな海を航海している時に、神が私たちを、嵐から守ることがおできになると語ることと、その嵐が私たちの回りで実際に吹き荒れている時に、その神の力をあかしすることとは、まったく別の事柄なのです。

神はいつも変わることのないお方です。嵐の中でも、なぎの中でも、病の中でも、健康な時でも、困難な時でも、平穏な時でも、貧しさの中でも、豊かさの中でも、神は「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」(へブル13章8節)お方であり、信仰者にとってはいつも、また、どんな状況にあっても、依り頼み、信頼し、助けを求めるべき、変わることのない堅固な実在のお方です。

しかし残念ながら私たちは不信仰なのです。ここに、弱さと失敗の原因があります。心穏やかに神を信頼すべき時に、私たちは、心が迷い動揺してしまうのです。神を当てにすべき時に、思案にくれてしまっています。「イエスから目を離さないでいる」(へブル12章2節)べき時に、「仲間の者たちに合図をして」(ルカ5章7節)いるのです。

こうして私たちは、多大な損害をこうむり、習慣的に主をはずかしめているのです。困難や試練が来た時に、主を信頼しようとしない私たちの傾向ほど、私たちが恥じ、心を低くしなければならないものは他にありません。このように主を信頼しないことによって、私たちは主イエスの心を確実に悲しませているのです。なぜなら、不信はいつも、愛の心を傷つけるからです。

この例を、創世記第50章のヨセフと兄弟たちとの場面に見てみましょう。「ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見た時、彼らは、『ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。』と言った。そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。『あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。「ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。」今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。』ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた。」(創世記50章15~17節)

それは、ヨセフがすでに兄弟たちに表わしていた愛と思いやりに対する、悲しいお返しでした。兄たちをこんなにも快く、またすっかり赦し、また兄たちを自分の意のままにすることができたときにさえ彼らのいのちを助けたヨセフが、長年にわたって親切を尽くした後に、兄たちに対して怒り、復讐することなど、どうして考えることができたでしょうか。それは実に、悲しむべき間違いでした。「ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた」のは当然です。兄たちの不似合いな恐れと暗い疑いに対する、何と言うすばらしい返事ではないでしょうか。止めどなく流れる涙、これこそが愛なのです。

「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子供たちを養いましょう。』こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」(創世記50章19~21節)

の小論で取りあげた弟子たちの場合も、これと同じ状況でした。その箇所を少し見てみましょう。

「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」(マルコ4章35~38節)

これは興味深く、また教訓に富んだ場面です。あわれな弟子たちは、窮地に追いやられていました。彼らは途方に暮れていました。激しい風、水でいっぱいになった舟、眠っておられる主。これは確かに試練の時でした。そして私たちも確かに自分自身を見るならば、弟子たちの恐れと動揺は驚くに当たりません。私たちであっても、もっとうまく対処できたとは思えません。けれども私たちは、弟子たちがどこで失敗したのかを調べないわけにはゆきません。この記事は、私たちの学びのために記されているのです。ですから私たちは、それを学び、私たちに語りかけている教訓を学びとるように努めなければなりません。

不信仰というものは、落ち着いてよく考えてみれば、これほど愚かで、理屈に合わないものはありません。私たちが学んでいるこの嵐の中で、その愚かさが、非常に明白になっています。舟が、神の御子を乗せたまま沈んでしまうと考えることほど、愚かなことがあるでしょうか。しかし、まさにそのことを弟子たちは恐れたのです。弟子たちは、神の御子のことには考えが及ばなかっただけなのかも知れません。事実、弟子たちは、嵐や、波や、水に満ちた舟のことしか考えていませんでした。常識的な判断では、絶望に思えました。不信仰な心は、いつもこのように推理するのです。状況だけを見て、神を除外します。それとは反対に、信仰は神だけを見つめ、状況を除外します。

何という違いではありませんか。信仰は、人の窮地にあって喜びます。なぜならそれは、神の働かれる機会にすぎないからです。信仰は、神へと「締めだされる」ことを喜びます。舞台からすべての被造物が除かれて、神がご自分のご栄光を現わすことができるように整えられることを、また神が満たすことができる「空の器」が数多く集められることを喜びます。私たちは確信をもってこう言うことができます。信仰は、嵐のただ中にあっても、弟子たちに主の側に横たえさせ、また、眠らせることもできたのだと。

不信仰は、その反対に弟子たちを不安に追いやります。彼らは自分自身を休ませることができないばかりか、不信仰な考えから、主をその眠りから起こしてしまうことまでしたのです。絶え間のない労苦にお疲れになった主は、舟が湖を渡る間、一時の休息を取っておられました。主は、疲れるということが何を意味するか知っておられました。主は私たちとまったく同じ状況の中へと下って来られました。そして、主は人間のすべての思いと、弱さをお知りになり、罪とは全く関わりのない方であったのにあらゆる点において、私たちと同じように、試みをお受けくださったのです。

主はあらゆる点で人であられました。そして人として、湖の波に揺られ、枕をして眠っておられました。創造主なる神が、疲れ、眠られる働き人としての姿をもって乗っておられた舟に、嵐と大波が打ち付けていました。

何という深遠な奥義でしょう。海を造り、風を全能の御手の中にとどめることのできるお方が、舟のともで身を横たえ、眠っておられました。そして、あたかもご自身が普通の人であるかのように、海と風とに、ご自身を不作法に取り扱うことを許しておられたのです。これが私たちの主の人間性の実際であるのです。主はお疲れになり、ご自分の御手をもってお造りになった湖に抱かれ、揺られながら眠っておられたのです。ああ、しばしの間この驚くべき光景を、熟想しようではありませんか。間近に見つめ、思いを巡らせて下さい。この情景を説明しつくすことはできません。ただ感動し礼拝するのみです。

しかし、すでに述べたように不信仰は、すばらしい主をその眠りから目覚めさせてしまいました。「弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』」何という質問でしょう。「何とも思われないのですか」という言葉は主の敏感なお心を、どれほど傷つけたことでしょう。主が、弟子たちの困難と危険とに無関心であられるなどと、いったいどうして考えることができたのでしょうか。弟子たちは、「何とも思われないのですか」と言ったとき、主の御力については言うまでもなく、主の愛までも、すっかり見失っていたのです。

しかし、これはまさに私たちを映す鏡ではないでしょうか。確かにそうです。困難や試練の時に、「何とも思われないのですか」という考えが、私たちの口からは出ないまでも、私たちの心に、何としばしば浮かぶことでしょう。それは私たちが病と痛みとでベッドに横たわっており、全能なる神のおことば一つで病は追い出され、私たちは立ち上がることが出来るはずなのに、そのおことばがとどめられている時です。あるいは、物質的な欠乏に見舞われ、金も銀もすべての野の獣も神のものであり、宇宙の富のすべては神の御手の元にあるというのに、来る日も来る日も私たちの必要が満たされないでいる時であるかも知れません。

そのような時は、一言で言えば、私たちがある意味で深い海を渡っているのです。嵐が吹き荒れ、波は次から次へと、私たちの小舟に押し寄せ、私たちは窮地に追い込まれ、途方に暮れてしまいます。そして私たちの心は、しばしば「何とも思われないのですか」という恐ろしい問いを、投げかけそうになるのです。私たちはこのような考えを、何よりも恥じ入らねばなりません。私たちの不信仰と疑いが、主イエスの愛の心を悲しませたと考えるならば、私たちは深い悔悟の念に満たされるはずです。

不信仰はまた、何と愚かしいことでしょう。私たちのためにご自分のいのちを捨てて下さった方(ご自分の栄光の場を離れ、苦しみと悲惨に満ちたこの世に下って来られ、私たちを永遠の怒りから救うために、屈辱的な死を味わって下さった方)が、どうして私たちのことを忘れてしまうようなことがあり得るでしょうか。しかし信仰が試みられると、私たちはすぐに疑ったり、忍耐を失ったりするのです。だが忘れていることがあります。私たちがそれほどまでに避け、また尻込みしている試練こそは、金の精錬よりもはるかに尊いということです。なぜなら、信仰は朽ちることのない実体であり、他方、金は使えば必ず無くなるものであるからです。真実な信仰は、試されれば試されるほど、輝きを増し加えます。ですから試練は、それがいかに厳しくても、私たちに信仰を植え付けてくださったばかりか、時には炉の中をもくぐらせ、しかしその中で必ず絶え間なく見守って下さるお方への賛美と誉れと栄光に至ります。

しかし、あわれな弟子たちは、この試練の時に失敗してしまいました。彼らの確信は、どこかへ行ってしまいました。そして「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」という非常に不面目な質問で、主を眠りから目覚めさせてしまったのです。  ああ私たちは、何と愚かな被造物ではないでしょうか。たった一つの困難がやって来ると、一万の恵を忘れてしまうのです。ダビデもこう言いました。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。」しかし、その結果はどうだったでしょう。サウルはギルボア山に倒れ、ダビデはイスラエルの王座に着かせられました。エリヤはイゼベルを恐れ、命を守ろうと逃げました。その結果はどうなったでしょう。イゼベルは道路に落ちて粉々に砕かれましたが、エリヤは火の車に乗って天に引き上げられました。ここでも同じように、弟子たちは舟に乗っておられる神の御子とともに死んでしまうと思いましたが、結果はどうだったでしょうか。かつてこの世界を創造されたその御声によって、嵐は直ちに静められ、海はガラスの様になりました。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風は止み、大なぎになった。」(マルコ4章39節)

これは、恵みと権威との何とすばらしい結合ではないでしょうか。主の休息を妨げた弟子たちを叱る代わりに、彼らをおののかせたその原因を、お叱りになりました。これが、「何とも思われないのですか」という弟子たちの質問に対する、主の返事でした。何とすばらしい主よ。誰があなたを信頼せずにいられましょう。その絶えることのない恵みと、人の失敗を責め立てることのなさらない愛のゆえに、誰があなたをあがめずにいられましょう。

私たちの主が、完全に人であられるが故にとっておられた休息から醒められ、本質的神性の活動へと、瞬時に入られた方法には、すばらしい美しさが見いだされます。人として、ご自分の働きに疲れ、まくらをして眠っておられました。神として、立ち上がり、全能の御声をもって嵐を静め、海をなぎにされました。

主イエスはそのようなお方であられました。まさしく神であられ、まさしく人であられました。そして、そのようなお方として、主は今も常に、ご自分の民の求めに答え、彼らの心配を静め、恐れを取り去ろうと備えをしておられるのです。ああ願わくは、主をもっと単純に信頼する者でありますように。

私たちは日々、主イエスの御腕によりすがらないことによって、どれほどの大きな損失をこうむっていることでしょうか。私たちはあまりにも容易に恐れてしまうのです。少しの風や波や雲にいらだち、ふさぎこんでしまうのです。主のみそばで静かに横になって休息を取る代わりに、恐れと困惑でいっぱいになってしまいます。嵐を、主に信頼するための機会とせずに、主を疑うための機会にしてしまっています。私たちの髪の毛の数さえも主はご存知であるとおっしゃっているのに、些細な問題が起きるとすぐに、私たちは滅んでしまうと思うのです。主が弟子たちに語られた次のことばは、確かに私たちに対することばでもあります。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」時に、私たちには全く信仰がないかのように思えるかもしれません。しかし主の愛は何と優しいことでしょう。私たちの不信仰な心が、すぐに主のみことばを疑ってしまうにもかかわらず、主は、私たちを守り、助けるためにいつも近くにいて下さいます。主は、私たちの主についての貧弱な考え方に従ってではなく、主ご自身の私たちに対する完全な愛に従って、私たちを取り扱って下さるのです。これが、天にある故郷での永遠の安息に向かって、人生の荒海を旅している私たちの航海の間、私たちの魂を慰め、また支えてくれるのです。

キリストが舟に乗っておられます。それで満足しましょう。静かに主を信頼いたしましょう。どうかいつも私たちの心の中心に、主イエスに対する真実なる信頼から湧き出る、深い安息がありますように。そうしたら、たとえ嵐が吹き、海は荒れ、波は高くても、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と言ってしまうことがないでしょう。私たちが舟に乗っておられる主とともに滅んでしまうようなことがあり得るでしょうか。私たちの心にキリストがおられるのに、そのようなことが考えられるでしょうか。聖霊なる神が、キリストを十分に、自由に、大胆に活用することを、私たちに教えて下さいますように。私たちは確かに、今、このことを必要としています。そして、これからもさらに必要とすることでしょう。心の中でキリストご自身を信仰によって、十分に理解し、またキリストとの交わりを楽しむべきです。そうすることにより、主が賛美され、私たちには常に平安と喜びがあります。

最後に、ここで学んだ状況によって、弟子たちがどのような影響を受けたかについて少しばかり注目しましょう。信仰が答えられた者たちが示すはずの静かな礼拝の代わりに、弟子たちは、恐れと、叱責された者の驚きを表わしてしまいました。「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」確かに弟子たちは、主をもっと良く知っているべきでした。そうです、そしてそれは私たちにも言えることなのです。

「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」

人々は、献金箱に金を投げ入れているのを見ておられるお方がいることに、全く気づいていませんでした。彼らの心の深みをも見通す目を持っておられ、彼らの行動の動機を読み取られるお方に、まさか調べられているとは、全く考えてもいませんでした。そこではパリサイ人たちが見えを張っていました。自分の富を見せびらかせて、宗教深さを披露していました。おそらく、心の冷めた格好だけの礼拝者もいて、いつも通りの決まり事として、献金箱に金を投げ入れていたことでしょう。主イエスは、すべてをご覧になり、すべてを計り、すべてをさばいておられました。

このことは、私達が主のための捧げ物をする度に、いつも考えるべきです。私の手に箱や袋が手渡されたときに、「イエスは献金箱に向かってすわり」、主の聖い御目が、私の手にではなく、私の心に注がれていることを思い起こしましょう。主は金額ではなく、動機を計られるのです。もし心が正しいなら、金額も正しいと主は判断なさいます。心が主のご人格に打たれているなら、手は主のために開かれます。キリストを真実に愛する者であるなら誰しも、主に捧げ物をするために犠牲を払うことは、高度で幸いな特権であると見なすはずです。主がわざわざ身を低くされて、私たちに捧げ物をすることをお求めくださるというのは、驚くべきことなのです。しかし主はそうしておられるのですから、私たちが「収入に応じて」捧げることができるのは、実に大きな喜びです。ですから、神は喜んで与える人を愛してくださると覚えつつ捧げましょう。主をほめたたえましょう。主はまさにそのような御方であるからです。

しかしながら、マルコ十二章で取り上げたいのは、貧しいやもめの取った行動です。献金箱に捧げ物を投げ入れるために押し寄せた群衆の中に、主イエスの目に留まった、ひとりの人がいました。「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」

金額からいえば、それは実に少額でした。しかし、それを捧げた人は「やもめ」、それも「貧しいやもめ」でした。やもめというのは、哀れで、無力で、孤独な者の典型でした。地上的な支えも、人間的な身寄りもない者たちでした。「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています」。(一テモテ五:五)

やもめといっても、このみことばのしるしが全くない自称やもめたちも大勢います。自分が孤独で哀れであることしか考えない者たちです。そのような者たちは、みことばに該当しません。ほんとうのやもめとは、到底呼ぶことができません。聖霊はほんとうのやもめの実に素晴らしい姿を、テモテ第一の手紙五章十一~十三節に記しておられます。

しかし、献金を捧げにやってきたこの貧しいやもめは、ほんとうのやもめでした。彼女の心は、キリストのお心と一致していたのです。「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」

しもこれが現代の出来事であったなら、金持ちの出す高額な献金が、新聞の記事か何かに、その金額の大きさを賞賛するお世辞の言葉とともに、華々しく掲載されたことでしょう。しかし、貧しいやもめとその捧げ物は軽蔑され、無視されたことでしょう。

しかし、ほむべき私たちの主のお考えは全く異なっていました。貧しいやもめのレプタ二枚は、主のご判断では、それ以外の全ての捧げ物にまさっていたのです。私たちが蓄えた金の中から、数千円や数万円を十分の一として捧げるのは、比較的容易です。しかし生活の必要品を犠牲にすること、いやそれどころか、自分の一つの贅沢や楽しみを犠牲にして捧げることが難しいのです。ところがこのやもめは、生活費の全てを神の家に携えてきたのでした。この精神こそ、主ご自身の精神と全く同質のものでした。彼女はこういう事ができたでしょう。「あなたの家を思う熱心が、私の生活費を食い尽くしました。」彼女は主の近くにいたのです。何という特権でしょう!

読者の皆さん、あなたは彼女が生活費を捧げた様子に、お気づきになっているでしょうか。なぜ聖霊は、「レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」とわざわざお語りになったのでしょうか。なぜ、「彼女は一コドラントを投げ入れた」ですませなかったのでしょうか。そのような書き方は絶対にあり得ません。それだと、この絶妙な美しさ、この心をこめた一途な献身の本当の色彩を描くことができないからです。もし彼女が硬貨を一枚しか持っていなかったなら、全て捧げるか、全く捧げないかのどちらかしか方法はありませんでした。けれども二枚あったのですから、一枚を自分の生活のために残しておくこともできたのです。そして、たとえそうしたとしても、私たちは、主のために生活費の半分を捧げるなんて、何とすばらしい献身だろうかと判断するはずです。しかし、この女性は違いました。心を完全に神にささげていたのです。ここが要点です。予備のものは、何も取っておかなかったのです。自分のことや自分の関心は、完全に見失われ、彼女の心が神のご目的にかなうと確信するところに、自分の持てるすべてを投げ出したのです。どうか神が私達に、このような精神を、いくらかでも持たせてくださいますように!

クリスチャンの歩みにおいて、試練に耐えねばならない時、何よりの助けとなるのは、全ての事に関わりを持っておられる神を見上げる習慣です。たとえどのように些細なことであっても、又ありふれたことであっても、耳に聞くための割礼があり、心にメッセージを聞くための霊的理解力があるならば、どのような出来事をも神からのメッセージとして見なすことができるのです。この尊い真理を見失ってしまうと、人生は多くの場合、ただの退屈な出来事の繰り返しとなり、日常の茶飯事の無意味な連続にすぎなくなってしまうのです。その逆に、もしも私たちが一日を始めるに当たって、私たちの御父の手がすべての場面に延べられていると認めることができたなら、すなわち、どんな小さなことにも、どんな重大な出来事にも、同様に神の御臨在を認めることができるなら、毎日がどれほど意味深いものとなることでしょう!

ヨナ書は、この真理を実に明確に説明しています。そこで私たちの覚えるべき教訓は、クリスチャンにとってありきたりの出来事は何一つなく、すべてが並外れた事であるということです。ヨナの生涯において、最もありふれた、些細な出来事も、すべては特別な神の働きかけの証拠でした。この特別な教訓を見るために、ヨナ書全体を詳しく解説する必要はありません。ただ、ヨナ書に繰り返し出てくる一つの表現に注目する必要があります。それは、「主は備えられた」という言葉です。

ヨナ書第一章で、主は大風を海に吹きつけられました。この風は、この預言者の耳が開いていたなら、彼の耳に厳粛な声となったはずでした。ヨナは教えを受ける必要のある人物でした。ですから彼のもとにメッセンジャーが遣わされたのです。哀れな異邦人の水夫たちは、これまでにも嵐に遭遇したことがあったはずです。彼らにとって、嵐は何も目新しいことでも、特別なことでもなく、船乗りなら誰もが経験することでした。しかしそれは、その船に乗っていたある一人の人物にとっては、船底で眠っていても、特別で並外れた出来事であったのです。水夫たちは嵐を何とかしようと努めましたがだめでした。主のメッセージが、その受取人の耳に届くまでは何をしても無駄でした。

ヨナの話をもう少し進めるなら、「全ての事に関わりを持たれる神」を他の例によっても認めることができます。彼は新しい環境の中に置かれましたが、彼は神のメッセージの届かないところに置かれたわけではありませんでした。クリスチャンは、御父の声の届かない所、御父の手の見えない場に自らを見出すことは決してありません。どこにあっても、御父の声は聞こえ、御手を見出すことができるのです。ですからヨナが海に投げ込まれたとき、「主は大きな魚を備え」られました。ここでも、神の子どもにはありきたりのことが一つもないと知ることができます。大魚は珍しい生き物ではありません。海には様々な大魚がいます。けれども主が、ヨナへのメッセンジャーとして、一匹の大魚を備えてくださったのです。

また、第四章においては、私たちは、預言者ヨナがニネベの町の東に座っているのを見ます。彼は不機嫌で不愉快になっています。町が滅ぼされなかったので怒り、自分の命を取ってくれるように主に頼んでいるのです。三日間海の深みにいた時に学んだ教訓を、まるで忘れてしまったかのようです。彼は神からの新しいメッセージを必要としていました。それで「主は一本のとうごまを備えられた。」これは実に示唆に富んでいます。とうごまが生えるのは、何も珍しいことではありません。とうごまはどこにでも生えています。人がたとえその陰に座ったとしても、何ら特別なことではありません。しかしヨナのとうごまは、神の御手のしるしでした。そしてそれは、神のご計画に従って、この預言者の経験する出来事をつなぐ重要な絆でした。このとうごまは、以前の大魚と同様、種類は全く異なりますが、神がヨナのために送られたメッセンジャーでした。「ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。」彼は前には死を願いましたが、それは忍耐のなさと悔しさの結果にすぎず、世を去って永遠の休息に入ることを願ったからではありませんでした。ヨナの心の中にそのような願いを起こしたものは、現在の苦しみであって、将来の幸せではなかったのです。

私たちにもこのようなことはしばしばあります。今ある困難から何とか脱したいと願うのですが、困難がなくなると、願いも消えてしまいます。けれども、もし私たちが主イエスの再臨とその栄光ある臨在を待ち望んでいるなら、状況が変わろうとその待望は変わらないはずです。そのような困難や悲しみが去っても、一層熱心に希望を持つはずです。ヨナは、とうごまの陰の下に座っているときには死を考えませんでした。ヨナが「とうごまを非常に喜んだ」という事実こそ、彼が主からのメッセンジャーをどれほど必要としていたかを証明しています。「今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから」と言うことばを発したとき、彼のたましいの本当の状態が明らかになりました。主は人の心の秘密を露わにするために、とうごまもお用いになったのです。確かに、クリスチャンは、神が全ての事に関わりを持っておられると言うことはできます。嵐は響き渡り、神の声が聞かれ、とうごまは静かに育ち、こうして神の御手が見られます。しかし、とうごまは鎖と鎖をつなぐ結び目にすぎません。なぜなら、「神は一匹の虫を備えられ」、取るに足らない虫ではあっても、神の道具という観点から見るなら、「大風」や「大魚」と同様に神の代行者であったからです。一匹の虫が、神によって用いられるとき、不思議な働きを行うことができました。それはヨナのとうごまを枯らし、ヨナに、そして私たちにも、重大な教訓を与えてくれるのです。確かに、それは取るに足りない代行者ですが、その効力は結び合せる鎖にかかっています。その一連の鎖は私たちに御父の偉大さを実に印象的に説明してくれるのです。神は一匹の虫を備え、焼けつくような東風を備え、全く異なる両者を一つにし、神の偉大なご計画の助けとされたのです。

一言で言うなら、霊的な心は、すべてのことの中に神の御手を見るのです。虫、大魚、嵐、これらすべてが神の手の中にある道具です。最もちっぽけなものも、最も立派な代行者と同様、神の目的を進めます。虫がまず初めに与えられた働きを行わなかったなら、東風がどれほど強烈であったとしても、何の効果もなかったことでしょう。何と驚くべき御わざでしょう!一匹の虫と東風が共同して神の御わざを行う代行者となるなど、誰が考え付いたでしょうか。しかし実にそれらが役目を果たしたのです。「偉大なもの」も「些細なもの」も、人間の使う用語であって、「身を低くして天と地をご覧になる」御方(詩篇一一三:六)には当てはまりません。「地をおおう天蓋の上に住まわれる」御方(イザヤ四〇:二二)には、どちらも同じです。主は星の数を数えられ、地に落ちるすずめのこともご存じです。主はたつまきを御自分の戦車とされ、また、砕かれた心を御自分の住まいとされます。神にとって、大小は関係ありません。

従って、信者はどのようなものも、当たり前と見なしてはなりません。なぜなら、神は全ての出来事に関わっておられるからです。確かに、私たちは他の人と同じ出来事を経験し、同じ試練や失敗に遭遇します。しかし、全く同じ方法で遭遇することはありませんし、それらを同じ原則で解釈するわけでもありません。また、それらは同じメッセージを運ぶわけでもありません。信者は、その日に起こるどんなに些細なことにも、またどんなに重大な出来事にも、神の御声を聞き、神のメッセージに注意しなければなりません。子どもの不従順、財産の喪失、しもべの不正、友の死、家族の死、これらすべては、自分の魂に送られた神からのメッセージとして受け取らねばならないのです。

また、この世を見渡しても、神は万事に関わっておられるのです。権力の座の転覆、国々の滅亡、ききん、伝染病など、国々の間に起こるすべての出来事は、神の御手の跡を示しており、人の耳に語っています。悪魔はクリスチャンから、このすばらしい現実的考えを奪おうとしています。悪魔は信者を試みて、毎日の生活の中で起こる出来事には、何も特別な意味はなく、誰にでも起こる事にすぎないと思わせようとするのです。しかし私たちは、悪魔にそのようなことを許してはなりません。私たちは一日を始めるに当たって、「神は万事を動かしておられる」という真理を心にしっかり留めていなければなりません。輝かしい光を放って天を巡る太陽も、道をはう虫も、どちらも神が備えられたのです。そしてどちらも、神の計り知れない御目的のために、一緒になって働いているのです。

結論にあたって、上記の尊い重要な真理をいつも覚えて歩まれた御方こそ、私たちの主であられることを述べたいと思います。この御方は、万事の中に主なる神の御手をご覧になり、御父の声をお聞きになりました。最も深い悲しみの時においてはこのことが特に顕著でした。ゲツセマネの園を出られるときに発せられた、あの記念すべきおことば、「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(ヨハネ一八:一一)こそまさに、万事に関わっておられる神を完全に認めておられたおことばです。

ある親愛な友人から、キリストのさばきの座という厳粛な主題について、助言を求められました。友人からの手紙にはこう書いていました。「私は当惑しています。私の友人は、キリストの裁きの座において、心のすべての思いやすべての動機が明かにされることを思うと、心が重くなるというのです。彼女は、自分の救いの永遠性や、彼女の罪の許しの問題については、何の恐れも疑いも持っていません。ただ、彼女の心の思いが、やがてみな明かにされると考えると、恐ろしさのあまりしり込みするというのです。」

また、こうも書かれていました。「ヨハネ五:二四、第一ヨハネ一:七~九、第一ヨハネ二:十二、へブル十:一~十七に記された、永遠に重要であるこれらの幸いなみことばを覚えるときに、あなたが以下のみことばをどのように理解しているのかをぜひとも知りたいのです。私がお尋ねしたいみことばをすべて書き写します。」
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(二コリント五:九)
「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」(ローマ十四:十二)
「不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」(コロサイ三:二五)
「これらのみことばについて、正しい理解と適応を知りたいのです。この主題についてお尋ねしても、喜んでお答えくださることと思い、手紙を書きました。」
「キリストのさばきの座」という厳粛な主題に関して、なぜ多くの人たちが困惑しているのでしょうか。その理由をよく考えてみるべきです。手紙に引用されているみことばは、非常にわかりやすいみことばですので、私たちは、ただこれらのみことばの持つ重みを、心と良心とにしっかりと受け止めればよいだけです。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて」、「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きをすることになります。」、「不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。」

これらのみことばの意味は明白です。みことばの持つ力を弱めたり、みことばの鋭さを鈍くして、みことばの要点をあいまいにしてはなりません。そのようなことは神がお許しになりません。むしろ、みことばを聖なる用い方で自分自身に当てはめ、様々な虚しいものを求めようとする肉と欲と気質とをさばかなければなりません。主は、みことばがこの様に用いられることを望んでおられます。私たちがこれらのみことばを律法的に用いて、キリストへの信頼が揺るいだり、キリストの救いの確信が失われるようなことを、主は決して望んでおられません。私たちは自分の罪に関して、刑罰を受けることは決してありません。ヨハネ五章二十四節や、ローマ八章一節、第一ヨハネ四章十七節は、この点について決定的な答えを与えています。しかしながら、私たちの奉仕が、私たちの主に調べられる必要があるのです。各人の行いは、それがどのようであるかを試されなければなりません。その日、すべてが明らかにされます。これは実に厳粛なことであり、私たちの働き、歩み、考え、ことば、動機、願望は、これによってよくよく警戒し、注意しなければなりません。恵みの豊さをより深く感じ、罪人が完全に義とされたことをより明確に理解することは、決して、キリストのさばきの座の厳粛さを弱めたり、主に喜ばれる歩みをしたいという願いを減じたりしません。

これはとても大切なことです。使徒パウロは、主に喜ばれようと労しました。失格者になることのないようにと、からだを従わせました。すべての聖徒が同じようにするべきです。私たちはすでにキリストにあって受け入れられています。そのような者であるがゆえに、主が喜んで受け入れてくださる働きをするのです。すべての真理は、それにふさわしい場所に置かれなければなりません。そのためには、私たちはいつも神の前を歩み、さまざまな真理をキリストと直接結びつけて見るように努めなければなりません。ある真理を用いることによって、実際的に他の真理を台無しにしてしまうという危険がいつもあります。そうならないように、よくよく注意しなければなりません。キリストのさばきの座においては、すべての人のすべての行いが完全に明らかにされることと信じます。すべてがその場に出されるのです。人の目には実にすばらしく見え、人々が感心し、地上でどよめきの声が上がるようなことが、「木・草・わら」のように焼き尽くされるかもしれません。その栄誉が海の向こうにまで輝き渡り、人々の賞賛のことばで持ちきりとなるようなことが、「その火」によって調べられた結果、ただの灰になってしまい得るのです。

心の計りごとすべては、やがて明らかにされます。すべての動機、すべての計画、すべてのもくろみが、聖所の秤によって計られます。その火は全ての人の働きを試します。そして、私たちの心から出た神の恵みの実だけが、純正品の刻印を押されます。心の中の混ざり物は判別され、さばかれ、焼かれてしまいます。すべての偏見、すべての間違った判断、他人に対するすべての憶測、このような類のものすべてが明らかにされ、火に投げ込まれます。その時私たちは、キリストがご覧になるように見、キリストが判断されるように判断するようになります。私は自分の刈り株が焼き尽くされるのを、誰にもまして喜ぶことでしょう。今、この時においても、私たちが光の内に成長し、知識においても、霊においても成長し、キリストにより近づけられ、キリストにより似た者とされるとき、かつて何の問題も感じていなかった多くのことに、心を咎めるようになります。それならば、やがて私たちがキリストのさばきの座の輝かしい光の中に立つとき、私たちはどう感じるでしょうか。

では、キリストのさばきの座についての教えは、信者にどのような実際的効果をもたらすでしょうか。自分の救いを疑わせるでしょうか。神に受け入れられているかどうかが不確かな状態にさせるでしょうか。キリストにある、神と自分との関係に疑問を持たせるでしょうか。そのようなことは絶対にありません。ではどのような効果をもたらすでしょうか。それは、信者が、主人であられる主イエスの監視下にあることを自覚しながら、聖なる警戒心を持って日々を歩むようにさせます。そして、用心深さと、自制心と、自らをさばく精神を産み出し、様々な奉仕と歩みにおいて、忠実さと熱心さと誠実さを養うのです。

分かりやすい例で説明しましょう。ある父親がしばらくの間、家を空けたとします。子供たちと別れる時、父親は子供たちに、なすべき仕事を与え、留守の間にどう過ごすべきかを教えます。父親が戻った時、子供たちが忠実で勤勉であったなら、父は彼らをほめるでしょうが、そうでなかったなら、叱らねばなりません。しかし、だからといって、子供たちを追い出したり、子供たちとの縁を切ってしまうようなことはしません。そのようなことはあり得ません。たとえ子供たちの失敗をとがめ、そのために叱らなければならないとしても、彼らが子供であることは何ら変わりません。もし子供たちが父親の言いつけを守らず、激しい兄弟げんかをしていたなら、あるいは、父の願いを一生懸命に果たそうとせず、それどころか、ねたみや争いがあったなら、叱られるのは当然ではありませんか。

では、「心の中のはかりごとも明らかにされる」と思うと、恐ろしさのあまり尻込みするという人にはどう答えればよいでしょうか。聖霊は、こう語っておられます。「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(一コリント四:五)聖霊は、心の中のはかりごとが誰に対して明らかにされるかを語っておられません。また、そのことは重大なことではありません。なぜなら、真実な心を持つ者は、他のしもべたちの判断よりも、主のご判断にもっと心を寄せているからです。もしも私がキリストをお喜ばせしているなら、人の評価にわずらわされることはありません。私の心のはかりごとすべてが、キリストの御目に明らかにされることより、人の目に明らかにされることに心を悩ませているなら、私は明らかに間違っています。それは自己本位になっている証拠です。隠れた心のはかりごとが明らかにされることを恐れているなら、心のはかりごとが正しくないと言うことです。それなら、それを直ちに裁くべきです。

私たちの罪や失敗が明らかになることに何か問題があるでしょうか。ペテロやダビデは、その恥ずかしい失敗の記録を多くの人に読まれて、喜ばしくない思いをしているでしょうか。そのようなことはあり得ません。彼らは、自分たちの罪の記録が、かえって神の恵みを表すこととなり、キリストの血の価値を解説することとなり、喜んでいるに違いありません。私たちの場合も同様です。私たちがもっと自分自身を空にし、キリストで満たされるなら、キリストのさばきの座についても、他の教えと同様に、もっと単純で正しい見方をすることができるはずです。

主が不在のこの時代にあって、どうか主が私たちの心を導いてくださり、私たちの心が主に真実でありますように。そして、主が来られるときに、御前で恥じ入ることがありませんように!私たちのなす働きすべてが、主にあって始められ、続けられ、成し遂げられますように。そして、それらが、主の栄光ある御臨在の前で正しく計られ、評価されるという事実によって、心かき乱される者たちでありませんように。さばきを恐れてではなく、「キリストの愛」に攻め立てられて、私たちのために死んでよみがえられた御方のために生きる者でありますように。主が木の上で、ご自身の体に私たちの罪を負ってくださったことを知るなら、私たちは当然のこと、喜んで自分のすべてをこの方の手に捧げるべきです。

「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」このことを知っている私たちに、恐れる理由などありません。キリストが現れたその瞬間に、私たちは彼と同じ姿に変えられ、栄光の主の御前に立ち、過去を振り返ります。高く挙げられた聖なる所から、地上での歩みを振り返るのです。全く異なる光で物事を見るようになります。地上では重要だと思えたことが、天では取るに足りないことがわかり、驚くことでしょう。自分のことを考えずに、ただ主イエスへの愛のゆえに行った小さなことが、詳細に記録されていて、豊かに報いられるのです。それと同時に、主の御臨在の明るい光の中で、私たちの見落としていた、様々な過ちや失敗もまた明らかにされることでしょう。以上のことは、どのような影響をもたらすでしょうか。あらゆるわなや危険から私たちを守り導いてくださり、私たちの様々な過ちや失敗を堪え忍んでくださり、ご自身の永遠の御国に場所を備えてくださった御方を、心から喜びつつ、大声で賛美を捧げるのみです。そして、かの場所において、主の栄光の光に浴し、主の栄光の姿で永遠に輝くのです。

この主題について長々と書くことはやめます。この問題について質問をした愛する友に対して、十分に答えることができたと、そしてその心の不安を除くことができたと確信します。困難な問題を抱えている人に答えることができるのは、幸いな奉仕であるといつも感じさせられています。私たちの真心からの願いは、主の民のたましいに助けとなり、祝福となることであり、主イエスの御名があがめられることです。

 今日のように、休みなく活動が行われている多忙な時代にあって、私たちがしっかりと心に留めておくべきことがあります。それは、神がすべてのことをただ一つの視点から見ておられ、ただ一つの原則によって計っておられ、ただ一つの試金石によって試しておられるということです。その試金石、原則、また視点とはキリストです。神は、ご自身の愛する御子に関係することを評価しておられ、御子と無関係なことは評価されません。しかし、御子に対して行われたこと、御子のために行われたことであるなら、何であれすべて、神にとって尊いのです。それ以外のものはすべて無価値です。人間の口から素晴らしい称賛のことばを受ける働きはたくさんありますが、神がそれをお計りになるとき、御子とどのような関係があるのかという、ただ一つの点だけを基準にしてご覧になるのです。神の発せられる最も重要な質問は、それがイエスの御名によって、御名のために行われたのか、ということなのです。もしそうなら、その働きは認められ、報いが与えられます。もしそうでないなら、それは拒絶され、焼き尽くされてしまいます。

 ですから、たとえ人が評価しないような小さな働きであっても、人の評価は問題とはなりません。ある人の行ったことに対して、人々は絶賛するかもしれません。その人の名前はあっという間に知れ渡り、仲間の間で話はもちきりになることでしょう。すばらしい説教者だ、教師だ、著作家だ、慈善家だ、影響力のある人だと言われるかもしれません。しかし、もしその人の働きが主イエスの御名と関係がないなら、すなわち、主とその栄光のために成されたのでないなら、そして、主の愛によって動かされた(責め立てられた)実でないなら、夏の麦打ち場のもみ殻のように吹き飛ばされ、永遠の忘却の彼方に沈んでしまいます。

 しかし、静かに、謙遜に、質素に、奉仕の道を歩む人もいます。人に知られず、注目も浴びません。有名でなく、目立つ働きでもありません。けれどもその働きは、ただ主を愛する愛から発しています。人に知られずとも、主をのみ見上げて、働いてきたのです。その人は、主の御顔の笑みで満足します。人に認めてもらうことなど眼中にありません。人の好意を引こうとか、人に嫌われないようにしようとか、全く考えていません。単調な日々を、キリストをのみ見上げ、ただキリストのために行動してきました。そのような働きは、いつまでも続きます。人々から記憶され、人からの報いを得ようと成されたわけではなく、ただ主イエスを愛する故に成された働きは、いつまでも覚えられ、報いられることとなります。このような働きこそ、正しい働きであり、主の日の火によっても焼け尽きてしまわない、本物の金銀です。

  以上述べたことはとても厳粛ですが、同時に大変な励ましでもあります。仲間の目を気にして働く者にとって厳粛ですが、主の御目のもとで働く者にとっては励ましです。時代への迎合と、人気取りの精神から解放され、主の御前を歩むことができるとは、──主にあって働きを始め、継続し、終えることができるとは──、言葉にならない憐れみです。

  この、実にすばらしく感動的な実例を、マタイ二六章に記された、「らい病人シモンの家」に見ることができます。「さて、イエスがベタニヤでツァラアテに冒された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」

  この女性がシモンの家にやって来た目的は、いったい何でしょうか。彼女の持って来た香油のすばらしい香り、あるいは、石膏の壷の形や材質を自慢するためだったでしょうか。自分の行動が、人々の賞賛の的となることだったでしょうか。救い主の友人たちという小さな集まりの中で、キリストに非常に献身的な女性という評判を得ることだったでしょうか。いいえ、読者の皆さん、そのようなこととは全く無関係でした。どうしてそう言えるでしょうか。それは、いと高き神、また万物の創造者であられ、心の底にある秘密も、行動の動機もすべて知っておられる方が、そこにおられたからです。このお方が、彼女の行動を聖所のはかりで計られ、主の承認の印を押されたのです。このお方は、ナザレのイエスとして、そこにおられました。すべてを知る神であられる、この方によって、行動の価値が計られます。そして、この方が、彼女の行動を本物とお認めになったのです。もしもそこに異物や混ぜ物、偽りの動機や下心があったなら、そうお認めになることはありません。そのようなことは、主にとって不可能です。すべてを見通しておられる主の聖なる目が、彼女の魂の奥底に注がれていました。主は、彼女が何をしたかを知っておられただけでなく、彼女がどのようにして、またなぜ、そうしたのかをも知っておられました。ですから主はこう言われたのです。「わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」

  一言で言うなら、キリストご自身に彼女の魂は奪われていました。そして、それゆえに、彼女の取った行動は価値があり、彼女の香油の香りが神の御座にまで立ち上ったのです。まさか、数え切れないほどの人々が彼女の心からの献身の記録を読むことになろうとは、彼女は想像もしていなかったことでしょう。彼女の行動が、主の手によって永遠の頁に記され、決して消し去られることがないなどと、誰が思い付いたでしょうか。彼女はそのようなことを考えてもいませんでした。そのような驚くべき評価を受けることを求めていたわけでもなく、夢見てもいませんでした。もしも彼女に、そのような意図があったなら、彼女の行動から美しさは奪われ、彼女の捧げ物から良い香りが消えてしまいます。

  しかし、この行動の対象である素晴らしい主は、この行動が忘れられることのないようにされました。主は彼女の行動を擁護されただけでなく、将来のためにこれを記録されたのです。それは、この女性にとって、身に余る光栄でした。主がお認めくださったなら、弟子たちの「憤慨」も、「むだなこと」と言われることも耐えることができます。主のお心をお喜ばせすることができたなら、彼女はそれで満足でした。それ以外のことは、それにふさわしい役割があります。彼女は人の賞賛を求めることも、人の嘲笑を避けることも考えませんでした。彼女はただ真っすぐに、キリストだけを見ていました。石膏の壺を手に持ったときから、それを割って主の頭に香油を注ぐときまで、彼女の心にあったのはキリストだけでした。主の置かれているこの重大な場面において、いったい何が主にふさわしいことであり、主をお喜ばせすることであるかを、彼女は直感的に察知しました。そして絶妙な機転で事を行いました。香油がいくらで売れるかは、全く考えても見ませんでした。仮に考えたとしても、主はその何千倍も価値のある御方だと思ったはずです。「貧しい人たち」のことについては、それにふさわしい場所があり、必要もあります。けれども彼女には、世界中のすべての貧しい人より、主イエスが重要であったのです。

  一言で言うなら、この女性の心はキリストによって満たされていました。そして、それが彼女の行動の特徴となっていたのです。他の者たちは「無駄な事」と言いましたが、私達は、キリストのために費やされることに何一つ無駄はないと確信すべきです。彼女は批判されましたが、彼女は正しかったのです。この地上も黄泉も、一つになって主に逆らっているまさにそのときに、主に栄誉を帰することは、人や御使いのなしうる最も高度な奉仕の働きです。主は間もなくご自身を捧げようとしておられました。影は長く伸び、陰鬱さが増し、厚い暗やみが覆いつつありました。実に恐ろしい十字架が、目前に控えていました。彼女はそれを予期して、それが起こる前に、ほむべき主のからだに香油を注いだのです。

  この結果に注目してください。主は即座に彼女を擁護されました。そして、彼女よりもっと良く理解していなければならないはずの者たちが彼女に浴びせた非難や叱責から、彼女を守り、彼女の盾となってくださいました。「するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

  何と栄誉ある弁護でしょう。人間の憤り、あざけり、無理解は、太陽が昇るときに消え去るもやのように、すっかりぬぐい取られました。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」彼女の行動に押された印は、「わたしに対してりっぱなこと」でした。この印の押されたものは、他のすべてのものから区別されます。あらゆる物事の価値は、キリストとの関係によって計られます。たとえ人が世界中を渡り歩き、博愛の精神で崇高な目的を達成したとしても、あるいは、たとえ人が気前の良い慈悲の心で財産を惜し気もなくまき散らしても、あるいは、持ち物を全部売り払って貧しい人に施しても、宗教心や道徳心の限りを尽くしても、キリストが「わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです」とおっしゃることのできることは、何一つ行ってはいないのです。

  読者の皆さん、あなたが誰であれ、何をしているのであれ、このことを良く考えてください。あなたの成すすべての事において、主にあなたの目を直接向けてください。どんなささいな奉仕においても、主イエスご自身を、その奉仕の直接の対象としてください。「わたしに対してりっぱなことをしてくれた」と主がおっしゃることのできるように努めましょう。あなたやあなたの働きに対する人間の評価に、心を捕らわれてはいけません。人々の憤慨や無理解に心を煩わせてもなりません。ただ、主ご自身の前に、香油の入ったあなたの石膏の壺を捧げてください。あなたの奉仕の一つ一つは、あなたの心が主をどのように評価しているかの表れです。主はあなたの働きを正しく評価され、無数の会衆の前で報いてくださると確信してください。

 私たちがこれまで読んできたこの女性は、まさにそのような人でした。彼女は石膏の壺を取り、らい病人シモンの家に真っすぐに向かいました。彼女の心にあったのはただひとりの方のことだけでした。それは、主イエスと主を待ち構えているできごとだけでした。彼女は主に心を奪われていたのです。ですから他のことは何も考えず、高価な香油を主の頭に注いだのでした。その結果、彼女の取った行動は貴い主の御名と結び付き、福音書の記録として私たちに伝えられて来ました。福音書を読むすべての者が、彼女の献身の記録をも読んできました。国々は興り、栄え、滅びて忘れ去られました。人間の才能、偉大さ、事業をたたえる記念碑が打ち立てられては倒され、粉々にされてきました。しかし、この女性の行動は、今も生きており、永遠に生き続けます。主の御手によって建てられた記念碑は、滅びることがありません。どうか私たちも恵みをいただいて、彼女にならう者でありますように。今日のような、人間の努力による働きであふれた時代にあって、私たちの働きが、それが何であれ、世から拒絶され、十字架に付けられた、不在の主を心から慕う思いから生まれた実でありますように。

  私たちの心を最もよく試すのは十字架の教えです。世から拒絶され、十字架に付けられたナザレのイエスの道です。これが、人間の心の最も深いところにあるものを明らかにします。ただ単に宗教心という問題に関してなら、人間は驚くほどの熱意を示すことができます。しかし、宗教心とキリストとは無関係です。このことを証明するために、何もあちらこちらと証拠を探し求めなくとも、今、私たちの開いているマタイ二六章の冒頭を見れば十分です。この場面で、大祭司の家の庭に、何が起きているでしょうか。民の指導者たちの特別な集まりが開かれています。「そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり」とあります。

  ここに、非常に印象的な形の宗教を見ることができます。ここに登場する祭司長や民の長老たちは、神の民を自認する人々から、聖なる書物を託された者たちと仰がれていました。彼らこそは、宗教のあらゆる問題における、唯一の権威であり、神がモーセの時代にお立てになった体系の中で、神からその務めが与えられていると見なされていました。カヤパの家の庭に集まったのは、ギリシャやローマの偶像の祭司たちや預言者たちではありません。イスラエルの民の指導者、また導き手を自認する者たちです。その彼らが、重大な集まりを開いて、いったい何をしようとしていたのでしょうか。「イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」のです。

 読者の皆さん、このことに注目してください。民の中の、最も宗教的な人々、学識ある人々、地位や影響力のある人々が会合を開き、イエスを憎み、イエスをだまして捕らえ、殺す計画を立てようとしているのです。神や礼拝やモーセや預言者や安息日について人々を教えてきたのは、この人たちなのです。実に彼らこそ、ユダヤ人の宗教の定めと儀式を担ってきた人々です。その彼らが、キリストを憎んでいるのです。この厳粛な事実をしっかりと心に留めてください。人間は非常に宗教的になることが可能です。宗教的指導者や教師でありつつ、同時に、神のキリストを憎むことができるのです。これが、大祭司カヤパの庭から学ぶことのできる重要な教訓です。宗教心とキリストとは無関係だということです。それどころか、最も熱心な宗教家が、しばしば、この幸いなお方を、誰よりも激しく、また苦々しく、憎んできたのです。

  しかしながら、こう言う人もいるでしょう。「時代は変わった。今や宗教はイエスの名前と結びついている。だから、宗教的な人が、当然、イエスを愛する人であるはずだ。カヤパの庭に相当する場所は、もやは存在しない。」はたしてそうでしょうか。いいえ、そのような考えを決して信じてはなりません。イエスの御名は、かつてカヤパの庭で憎まれたように、今日も変わりありません。主イエスに従おうとする者たちは、必ず憎しみを受けます。これを証明するのは容易です。主イエスは今も、この世から拒絶されたままです。主の御名をどこで聞くことができるでしょうか。主がいったいどこで歓迎されているでしょうか。このお方について、語ってみてください。それが裕福できらびやかな上流社会であっても、列車の中であっても、客船のホールであっても、喫茶店であっても、食堂であっても、人の集まるどのような場所であっても、そのような話題を口にするのは場所をわきまえないことだと言われるに違いありません。

  ところが、政治、金儲け、仕事、娯楽、たわごと、こう言ったことならかまいません。このような話題なら、どこででも話されています。イエス、これだけが場違いなのです。人々でにぎわう大通りに、ドイツの楽団や歌い手たちや人形芝居をする者たちが現れて交通を遮っても、 誰も文句を言ったり、抗議をしたりしません。このようなことはよく目にする光景です。しかし、このような場所で誰かがイエスについて語ったら、ばかにされるか、どこか別の場所でやってくれと言われるか、交通のじゃまだといわれるに違いありません。要するに、この世には悪魔のための場所はあっても、神のキリストのための場所がないということです。キリストに対するこの世の標語はこうです。「主の名を口にするな。」

  しかし神に感謝すべきことに、たとえ私たちの周りに大祭司の庭に相当する場所がたくさんあっても、らい病人シモンの家に相当する場所もまた、あちこちにあります。感謝すべきかな、イエスの御名を愛し、この方を、石膏の壷を受けるにふさわしい方であると認める者たちがいます。主の尊い十字架を恥とせず、主に心を奪われ、どのように小さなことであっても、主のために用いられることを最大の喜び、また最大の特権と考える者たちがいます。彼らにとって、それは、どの団体が、どこで、どのような宗教的活動をしているかという問題ではありません。彼らの関心はただキリストです。このお方の近くにいて、このお方を思い、このお方の足下に座り、このお方に真実な心からの献身から発した尊い香油を注ぐことが問題なのです。

  読者の皆さん、これが、奉仕と証における真の力の秘訣であるということを確信してください。十字架に付けられたキリストを正しく評価することが、すべての源泉です。そこから発するものであるなら、クリスチャン個々人の行動であれ、公の集まりで行われる事柄であれ、すべて、神に受け入れられるのです。キリストを真実に慕い、このお方に心の捧げられていることが、個人、また集団の特徴であるべきです。さもなくば、私たちの人生も生涯も、世の判断でどれほど価値があっても、天の判断では無価値となります。クリスチャン個々人の歩みと品性に、このような霊的力を与えるものは、キリストご自身への真実な献身以外にありません。有名な信仰者、祈りの人、聖書をよく学んだ人、学者、賜物豊かな説教者、力強い著述家になることではありません。ただ、キリストを愛する人であることです。

  クリスチャンの集まりに関して、その力の秘訣はいったい何でしょうか。賜物、雄弁、すばらしい音楽、荘厳な儀式でしょうか。いいえ、違います。キリストの御臨在が享受されていることです。主がおられるなら、光と命と力にあふれます。けれども、主がおられないなら、闇と死と荒廃のあるのみです。集会に、たとえ雄弁な説教や魅力的な音楽や感動的な儀式があっても、主イエスがおられなければ、そこは墓場と同じです。こういったものが完璧にそろっていても、主イエスを心から愛するものは、こう叫ぶことでしょう。「だれかが主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」しかし、主の御臨在があるなら、すなわち主の御声が聞こえ、主の御手が魂に生き生きと感じられるなら、たとえ人の目に弱さ以外に何も映らなくても、実にそこには力と祝福があります。

  クリスチャンはこのことを心に留め、よく考えましょう。自分たちの公の集会において、主の御臨在が認められているかどうかをよく吟味しましょう。もしも、完全な確信を持って、主が共におられると言うことができないなら、自らへりくだって、主を待ち望みましょう。必ず原因があるはずですから。主はこうおっしゃいました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ一八:二〇)神のお与えくださる結果を得るためには、神の条件を満たしていなければならないことを、決して忘れることがありませんように。

 私たちがこの世の道のりを歩む際の力は、私たちがどこにあっても、キリストと一体とされていることを、聖霊の力によって理解することによります。また、ただ救われていると知っているだけでなく、キリストを表すために世に置かれていることを理解し、主の最も尊い血によって良心がきよめらることによるのです。クリスチャンの証は、このような性質を帯びています。クリスチャンは、キリストの足跡に従う者なのです。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」さらに、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」これらのみことばは、私たちの歩み、習慣、感情、目的に関して、私たちを責任ある立場に置きます。私たちは、生きておられるキリストからの責任を自覚しているでしょうか。神の教会がこの世に置かれているのは、まさにこのゆえです。すなわち、キリストが不在であられる間、キリストを表すことなのです。クリスチャンの良心は、しばしば、救われていない人に聖書を手渡して、キリストがどのような方であるかを読んでもらうことで満足してしまうことがあります。しかし、これはキリストが私たちをこの地上に置いておられる目的ではありません。「あなたがたがキリストの手紙であり・・・すべての人に知られ、また読まれているのです。」私たちはそのような手紙となって、人々に読まれているでしょうか。それは、誰かから「あなたの信条はどのようなものですか。どのような見解を持っているのですか。」と尋ねられることではありません。もし私が、キリストの道とキリストの御思いの表現でないなら、私はつまずきの石以外の何者でもありません。クリスチャンとは、生ける、いのちある、キリストの表現であり、キリストの原則、特徴、恵み、御性格の表現であるべきです。ああ、しかし、キリスト教世界全体は、ひとそろいの意見の寄せ集めとなってしまっています。人はある教派を選び、その教派の見解がその人の特徴となっています。しかし私たちは、私たちの信じているキリストのいのちによって生きるようにと召されています。私たちはこの御方と一つであり、この御方がどのような方であるかを示すようにと召されているのです。そして、そのように行動し、この御方を表すための力はすべて、私がこの御方と一つであることを理解することによっているのです。 キリストの歩まれた道においても、キリストと一体とされている信者の歩む道においても、二つの重要な段階があります。それは、ヘブル人への手紙に記されています。最初の段階は、魂が「至聖所」に入るところで終わります(ヘブル10章)。聖霊は、この場所に至るまで私たちを一歩一歩導いてくださり、私たちをこの幸いな場所に入れてくださいます。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:19~20)

知的な献身の力は、私たちの良心の完全なきよめを理解することによるのですが、多くの者たちがこの点を理解していません。彼らはこれを得ようと努力していますが、それは神の順序を全く逆にしています。私はきよめられた良心をすでに得ています。私が前進するのは、これを得るためではなく、これを得ているからなのです。ではどうやってこれを得たのでしょうか。それは私が何かをしたからではありません。私のもくろみや感情、自分の達成したことや経験したことによるのではありません。聖霊が、それは主イエスの血によると教えてくださったのです。

聖霊はキリストのご人格の栄光を、御使いやモーセの栄光と対比させてくださいました。またキリストの祭司職を、アロンのそれと対比させてくださいました。キリストの犠牲を、律法のもとでの犠牲と対比させてくださいました。ではその結果は何でしょう。私たちは良心がきよめられたのです。主は私たちを幕の内側に入れてくださいました。これは、あるクリスチャンは得ているけれども、別のクリスチャンはそれを得ようと奮闘しなければならないものではありません。むしろ、すべてのクリスチャンに共通の土台です。私たち皆が良心をきよめられたのです。ある者たちの考えによると、キリストの血は回心前の私たちの罪を取り除いたが、回心後の罪は大祭司なるキリストが取り扱いになるというのです。しかしそれは聖霊の語っておられることとは違います。キリストの血によって、私たちは完全にきよめられた良心を持って、「罪を意識することなく」、聖所の中に入っているのです。それはひとえにキリストの犠牲の価値ゆえであって、それ以下の何者によるのでもありません。私の罪のいくらかではなく、罪すべてが消し去られました。大祭司が年に一度しか入ることのできなかった場所に、最も愚かな信者でさえ座らせられているのです。

人々の魂を注意深く調べると、どれほどの疑い、曇り、おそれ、心配を人が持っており、心を悩ませているかを発見します。キリストの血を私たちのために少しでも働かせるなら、それは私たちを、傷もしみもそのようなものの何もない者とするのです。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのですから・・・近づこうではありませんか。」ここには、使徒たちとそれ以外の者たちという区別はありません。使徒パウロも十字架に付けられた犯罪人も、すべての者が同様に、同じ幕の内側に入っているのです。

大祭司であられるキリストは、キリストの血が私を導き入れた場所に、私を実際的に保つために働いておられます。ヨハネの手紙に書かれているように、「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」子供にとって、自分の過ちを告白するよりも、赦しを求めることの方が簡単です。私たちはある特定の罪のために赦しを求めたとしても、罪がきよめられたと知ることのできる聖書の保証は得ることができません。けれどももし私たちが罪を言い表すなら、信仰によって、その罪がきよめられたと知ることができます。私は今、信者の話をしています。もしも、まだ回心していない人についての問題なら、キリストの血が解決を与えます。神は、「真実で正しい方ですから(恵み深く憐れみ深い方であるからではありません)、私たちの罪を赦してくださいます。私が自分の罪に関して自分自身を裁いた瞬間、私はこの問題が解決したと知る権利があるのです。

信者は、弟子の道のスタートから、なんとすばらしい立場に置かれていることでしょう。罪が洗われ、良心がきよめられ、曇りなき御顔の光の中に座らせられているのです。ではそこでどうするべきでしょうか。休んでいればよいのでしょうか。いいえ。この立場こそが、実際的な献身という構造物の土台なのです。律法主義と放縦主義とはどちらも黙らせられました。律法主義は言います。あなたは努力をして平安な立場を得なければならない。しかし福音は答えます。キリストが私をその立場に置いてくださいました。私は自分でその場に立つことは決してできませんでした。律法はそのことを証明しました。神が律法をお与えになったとき、神は何をなさろうとしておられたのでしょうか。「あなたはこのことをしなければならない。」「あなたはこのことをしてはならない。」これらの掟は、人の心を明らかにしました。人間は、神がせよとおっしゃったことをすることができず、神がするなとおっしゃったことをしないでおれません。「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。」(ガラテヤ3:10)律法の行いによっては、私は決して聖所に入ることができません。しかし、私がそこに入れられているのは、キリストが私のために十字架で成し遂げられた御わざのゆえです。それはヘブル書の冒頭に記されているとおりです。「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1:3)「座られました」と書かれているのはなぜでしょう。それは御わざが完了したことの証拠です。アロンは決して座ることができませんでした。祭司が座るための椅子は、幕屋にも神殿にもありませんでした。

放縦主義はどう言うでしょうか。「私はすでに得ている。キリストのうちにすべてを持っている。」そしてそれで終わりです。しかしそれは間違いです!福音が私をこの立場に置いたのは、私が、前に置かれた競争を走るためであり、燃えるような熱心さで、キリストにならうためなのです。

さて、前半部分が私を至聖所に導き入れたとすれば、後半部分は私を宿営の外に連れ出します。私は自分の良心に関しては、キリストを「幕の内側に」見いだし、私の心に関しては、「宿営の外」に見いだします。私たちが、キリストを知って、幕の内側に入り、主の犠牲によって与えられた慰めだけを得ているなら、それは私たちにふさわしくないことです。私は宿営の外においても、実際的に主と一体であることを求めなければなりません。キリストは幕の内側で、私の良心を平穏にします。キリストは宿営の外で、私の魂を生かして力づけ、前に置かれた競争を、より熱心に走れるようにしてくださいます。「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(11~13)霊的に見て、幕の内側と宿営の外とは、最もかけ離れた場所です。ところが、ここでは、この二点は結ばれています。幕の内側は、神の栄光の宿る輝きの場所です。宿営の外は、罪のためのいけにえが焼かれる場所です。これほどに、神からの距離を感じさせる場所はありません。しかし聖霊は実にすばらしいことを教えてくださいました。主イエスが、これら二つの場所の間にあるすべてを埋めてくださったのです。私は宿営とは何の関係もなくなりました。宿営は表面上の信仰の告白の場所です。(イスラエルの宿営は型であり、本体はエルサレムの町です。)キリストはなぜ、門の外で苦しみをお受けになったのでしょうか。それは、イスラエルの信仰の告白が、ただの形だけの機械的な組織に過ぎず、神から退けられていることを示すためでした。

私たちは、キリストが私たちのために行われた御わざについては、明瞭に理解していることでしょう。( このすばらしい御わざが曇っていることは、神がお許しになりません。)そして全き良心を持っていることでしょう。しかしながら、良心が平安であることだけで満足なのですか。責任はないのでしょうか。キリストの御声は幕の内側からだけですか。宿営の外からの御声はありませんか。幕の内側でキリストの御声を聞くことによって与えられる、喜び・平安・自由は、実のところ、私たちが宿営の外でこのお方を声を聞くかどうかにかかっていることが分かるはずです。キリストとともに多く苦しみ、この方の辱めを多く負った者こそ、幕の内側で、この方の与えてくださる幸いな平安を誰よりも知ることができるのです。この地上での私たちの行動・方針・歩みは、キリストによって試されなければなりません。「キリストはそこにおられますか?キリストはそうされますか?」聖徒たちがもし、キリストのお進みにならなかった道を進んでいるなら、聖霊は憂いておられ、魂はやせ衰えています。憂いておられる聖霊が、どうやってキリストを証しすることがおできになるでしょう。聖霊によってキリストを証しする励ましや喜びが、どうして与えられることがあるでしょう。もしキリストとの交わりを持って歩んでいないなら、どうやってキリストを喜び楽しむことができるでしょう。誰かと交わりを持とうとするなら、その人のいる場所にいなければなりません。では、キリストはどこにおられるのでしょうか。「宿営の外」です。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」人のもとに行くのでも、主義主張のもとでも、教会でも、信条でもなく、キリストご自身のもとに行くのです。私たちは世のものではありません。なぜでしょうか。それは、キリストがこの世のものでないからです。私たちが世から分離するはかりは、キリストの分離のはかりです。「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのでは」ありません。それとも、まだこの地上を求めるのですか。この地上の環境、あるいは、寄り頼むべき何かを求めるのですか。「少しくらいは私に残して置いてください」と言うのですか。それはまるで、ロトがツォアルを求めて、「あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」「どうか全部を取らないでください。」と言ったのと同じです。ロトの心は、世の小さなものをまだ求めていたのです。心がキリストによって満たされたときに、世を捨てることができ、それも何ら困難なことでなくなるのです。世を慕っている人に、「これを捨てなさい」、「あれを捨てなさい」と言っても無駄なことです。必要なのは、その人の心にキリストをもっと与えることです。

私は宿営の外にいます。後に来ようとしている都を求めています。後に来ようとしている御方を待っています。このような状態にあって、この世とその体系から出ようとしている私は、自分が二つの立場にいることがわかります。一方は神に対してであり、他方は人々に対してです。前者に関しては、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(15節)と語られており、後者に関しては次の節に、美しい慈愛の精神から発する行動が記されています。「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはなりません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」(16節)

私はキリストとともに幕の内側におり、この世にあっては宿営の外で「キリストのはずかしめを身に負って」います。こうして、周囲にある、キリストから出ていない口先だけの信仰の告白から守られ、礼拝とすべての人への善行に励むのです。

私の希望は、人々の言うように、「再臨の教義を保持する」ことではなく、「神の御子が天から来られるのを待ち望んでいる」のです。それは、いのちのない、ひからびた教義ではありません。もしも私たちが、神の御子が天から来られるのを本当に待ち望んでいるなら、この世にとらわれたりしません。

私は、魂の必要を満たしてくださるキリストを持っています。そして、神の御子が天から来られるのを待ち望んでいます。それは、キリストが天から来られたなら、ご自身の教会をご自分のもとに引き上げてくださり、主のおられるところに私たちもいることになるからであり、しかもそれが今夜起こるかもしれないからです。私が待っているのは、反キリストでも、しるしでも、国々の出来事でもありません。ただ、この聖なる幸いな出来事、神の御子が天から来られることを待ち望んでいるのです。どうか、一方の手でキリストを握りしめようとしながら、もう一方の手でこの世を手放さないでいるような、相反する、矛盾した者でありませんように。もし私たちが、自分は「幕の内側に」いることを知っているなら、「宿営の外に」もいることを忘れないでいましょう。そこには、辱め・あざけり・憎しみ・あらぬ疑いがあることでしょう。けれども、キリストとの交わりの喜びもまたあるのです。「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」